素人·未熟

最近是日本私立、國立小學入學考試的季節。對於這種名叫「受驗」的社會現象乃至生活方式,我沒有什麼看法想要發表,只想抄錄被視爲私立小學頂峯的慶應義塾幼稚舍多年前的一位破格教師川村博通的話。這段文字收錄在其學生爲他編的六十大壽紀念文集《素人先生》(1975)裏。

素人、それは江戸以来の東京の堅気の町家の一つの大切な生き方だと私は念ふ。素人も玄人も区別のなくなってしまった今日の東京人の生き方。きっと(ほぞ)を噛む時が来るぞ。職業に追われて齷齪(あくせく)と生きて行く人間のはかなさ、それは私の生きる道ではない。私は、三十年、先生として生きて来てしまったが、一日として、自ら先生と思ったことはない。慶応義塾では先生は福沢先生お一人だけ、その先生も緒方塾の書生上りの素人先生であったのだ。であればこそ、あの時代にあれだけ自由闊達な教育者振りが発揮出来たのだと私は思ふ。私も、生涯、素人先生でよいのだ。

Ignaz Friedman 大概不會被視爲素人,但我在聽他彈蕭邦的馬祖卡時經常想到這段話。(蕭邦是 100% 素人。)事實上,Friedman、Moriz Rosenthal、Josef Hofmann 那一代鋼琴家今天聽來都像素人。素人在日語辭典中的一個解釋是「未熟之人」。未熟不是一種靜止的狀態,而是向熟成伸拉的動作。知其不可而爲。如松田聖子唱「風立ちぬ」,如高畑勲爲《赤毛のアン》選角時選了頭一次擔任動畫配音的山田榮子。秋元康說 K-pop 是職業棒球,而 AKB48 是高中棒球。日本庶民選秀節目先驅「スター誕生!」播出的年代,秋元康完成了從少年的成年的洗禮。但 AKB 及其後續正正是靜止的未熟,行屍走肉。